oita0115◆馬〆神社
【鎮座地】大分市福良387番地
【旧社格】村社
【御祭神】大山祇命外3柱
【その他】[大分市指定名木]ムクノキ(椋の木)詳細を見る→
馬〆神社の由来
馬〆神社の創建は、当吉野郷福良村に玉ノ井光道光照坊という僧あり平素神仏に帰依し千二百四十六正月、出雲の国雲見神社へ参拝、ご神体を蒙る、御分霊を供奉し帰村の上、清き木の本に神殿を営み雲見社と称し当村の氏神に崇められた。
千三百九十年七月大洪水で社殿流失、千三百九十五年此の地、西は御池、南は島、東は三日月形の塚川に渕あり、椋の木繁茂の原野あり。夜星の照り輝く燈火現れ、また里には馬の病流行する。地区民不思議に思っている時、同村に玉ノ井兵部宣親馬に乗りその原野を通行の際宣親落馬する。身に数カ所の痛みを生じ、種々治療すれど癒えず。
ある夜、白髪の老翁現れ、予は昔より木の本原野に鎮座するものなり。汝信心堅固なる者故告ぐ。彼の木の本に社殿を造営すれば、汝の難病及び牛馬の病、平癒する、終わりて御姿みえず。宣親驚き、恐れ畏み、直ちに該霊地に神殿を造営し、馬〆大将軍霊見社と改め、奉る時に宣親の難病および牛馬の病、忽ち平癒する。
宣親崇尊いよいよ厚し、そして永享元年十一月十五日 宣親神主となり、玉ノ井兵部宣親と改め奉仕する。このこと、遠近に伝わり賽者絶えること無し。
毎年正月十五日、六月二十八日、十一月初午日を祭日と定める。その後千六百四十一年、領主稲葉典通公の御乗馬大いに病医薬効なし、これにより今宮隼人を召し、馬病平癒の祈祷を命ぜられる。馬直ちに癒す。
領主大いに感じ神領田若干御寄附あり、尚又、今宮隼人へ年玄米三俵を宛賜る。明治維新神社改正の際、馬〆神社と称し村社に列せられる。平成二十一年十二月吉日
大分市地域まちづくり活性化事業
【関連サイト】 『歴史とぶらり旅』(YouTube動画)馬〆神社 : 大分県大分市福良↓ 091 馬〆神社 : 大分県大分市福良「まじめじんじゃ」と読みます。
『徒然草』巨木散策ー三十五
【関連サイト】 『大分縣社寺名勝圖録』(国立国会図書館)村社馬〆神社境内圖→ 『天満宮巡拝』天神社(馬〆神社)↓ 天 満 宮 巡 拝 - FC2 BLOG パスワード認証
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Googleマップに写真の投稿があります。(ごっちゃんねるさん他) (↓Googleマップの仕様で他の方の投稿写真が表示されることがあります。) https://goo.gl/maps/xk1uUT5Z1Vdan6Fr7